手で感じ、手で考える。

コンピュ〜タ〜に囲まれて〜。独立してからずっと設計図面はCADを使って描いている。それまで勤めの間はT定規に勾配定規を使ってせっせと図面を手描きしていた。今となると、コンピュ〜タ〜なしに設計の仕事をこなすのは心許ない状態になっている。手描きはアバウトなところも多いが、伝えたいことを伝えやすい。CADは正確に描けるが、正確ゆえに細かなことに気をとられ大切なところを見失う。そんなところにiPadが現れてちょっと様子が変わる。便利さに負けて基本の図面は相変わらずCADだけど、現場に入ると納まり図や打ち合わせ図は手描き図をスキャンしたり、直接iPadを使って手描き(風?)が増えるようになった。どことなく、自分なりにはバランスが取れている気がしている。いろんな意味で手数だけは増える時代の流れはそれなり素晴らしい。

コンピュ〜タ〜に向き不向きや好き嫌いもあって、今も手描きにこだわる設計者は案外多い。と言っても、手描きは手描きで得手不得手あるので、どちらが良いとは一概に言えない。そう分かりつつも、この仕事を始めるなら手描きからスタートするのが良いとやっぱり思っている。自分はまだまだ古いタイプなのかもしれない。そうした意図でないと思うが、建築士試験も未だ手描き。これが無くなったら、一度も鉛筆で線を引いたことがない設計者や建設従事者も現れるのだろう。

いらぬ懸念はエエ歳になった設計者の勝手な思いかと思い始めていた。がつい先日、現場の大工さんと立ち話をしていたらそうでもなかった。今の木造工事では、柱や梁の加工はほとんどがプレカットと呼ぶ機械加工による。専用のCADによって、それまで大工仕事の基本であった刻み仕事のほとんどがアレヨアレヨと寸分たがわぬ勢いで加工されていく。それはそれで見事なもの。最近は、3次元CADによって大工さんでないと出来なかった複雑な仕事も、難なくこなすようにもなってきている。若い見習いの大工さんを指して、あの子らは墨付けも刻みもやったことがないんだよね〜。大工はいなくなるよ。

和室押し入れのタテ枠を触りながら、コレ触ってみ、既製品の枠やけどちょっと膨れてるやろ。そのまま上を見上げ鴨居との突き合わせを指して、それが分からんとこうもピッタリならんのや。見事にくっついている。今の子は数字だけ追っかけて、隙間が出来てもなんでか分からんし、気にしよらん。そんなこと気にしとるからワシは手間かかるんやけどな。アハハ。

手で感じ考えないと分からない部分は、いくらコンピュ〜タ〜が良くなっても操作する人間次第。自分の手で描く図面に近づいたり離れたり離れたりする体感は、左手一つでズームイン/ズームアウトするのとは訳が違う。見た目のデザインだけなら、どちらでも良いのかもしれないが、本来必要な五感を使った仕事やデザインは手からしか生まれない。まだまだそう思い込みたいエエ歳になってきた設計者です。

広い視点と狭い視点を行ったり来たり。

昨日は快晴でしたが、これからしばらく雨が続くそうです。嫌な季節です。プレゼンのひとつが一段落ついたので、昨晩は事務所のスタッフと近所の居酒屋へ。今朝はちょっと寝坊して出勤したものの、ぼ〜っとする訳にもなかなか行かず、ぼやけた頭のまま実施計画に掛かっている図面を進めているところです。が、これがなかなかどうにも思う様にまとまらず、日々悩んでいる最中です。

間取りはほぼ決まっているのですが、真壁の木造で現しになる骨組みを見せるには、ああでもないなこうでもないなと頭の中でできあがりのイメージを想像し、図面をあっちこっちに移動して描き進めています。今描き進めているのはいわゆる伏図や軸組図と言う構造図面のようなものですが、見せ場はほとんどこれで決まるので、どちらか言えば意匠図のようなものです。なので、これらがしっくり来ないので次ぎのステップにどうも進めずにいます。建物全体と部分の詳細とほぼ同時にイメージが固まらないとなんだか気持ち悪いのです。

近い内に大工さんにも見てもらいたいし、構造設計の打合せもこれからの予定なので、恥ずかしい図面も描けない。まずは自分が思う意図を伝えられるようにしないと、曖昧なままではやっぱりバツが悪いものです。そんな訳で今はぼちぼちとイメージの基礎固めなのですが、どちらか言うと卍固になっているのかも。

順々「和」が分る様になりたい。

滋賀坂本・竹林院
滋賀坂本・竹林院

手掛ける物件にどことなく木造が多くなって来たからなおさらだけど、どことなく「和」と言うのものに興味が向いています。もちろん以前から和風の家には興味があるのですが、今自分に出来るのはせいぜい「準々・和風」ぐらいでしょうか。ええ歳になったころ、ちゃんとした「和」ができるようになりたい。「和風」でも「純和風」でもなく「和」。むろん茶室とか書院とか日本建築の体系を理解し具現できるようになる事ももちろんですが、「和」とは何ぞを体現できる何かを掴みたいと思っています。

ですが、たまに訪れる「和」の空間を見る度、余りに通り一辺倒でしかない自分を恥じるばかりです。