このままモヤリンピックで良いのかな。。。

ポップコーンマシンの車輪

2020年東京五輪に向けてトップクリエーター2氏を巡る一連の騒動は、新国立競技場にしても、エンブレムにしても、個人的にいつまでもモヤモヤした思いが拭いきれないでいます。しばらく前から何か書いてみようと思いましたが、なかなか考えも思いもまとまらず、ただダラダラと傍観していました。頼んだ人、作った人、選んだ人、見守った人、誰も晴れた気分に到底なれそうにない、この事態がどう収拾着くのか一国民には検討もつきません。

曲がりなりにも作る側の立場から少しばかり気になることがあります。
今回は建築とグラフィックデザインの成り立ちが人目に晒され、多少なりとも関心の的になりました。そのこと自体は良いことだと思うのですが、この騒動においては、他者から見るとその過程がとても懐疑的に伝わっていたことです。経済や利権や盗作や疑惑と言ったフレーズにかき消され、さらには不勉強な方々にまで好き放題揶揄され、デザインの善し悪しさえどうでもよく創作側の意見や主張はどこまでも添え物にしか見えないようになっていることでした。
両氏に対する見解はともかく、創作の立場に関わる方ならなんとも歯がゆいものを感じた方は少なくはないと思います。違うのかな。。。

挙げ句の果て両騒動の成り行きは、有無も言わさず再コンペとなりました。これにも正直、肩の力が抜けてしかたありません。ひ弱な私だと、創作の意欲がスッカリ無くなりそうです。

この際、新国立競技場にしても、エンブレムにしても、一度決まった両氏にもう一度頑張ってもらえばいいジャンと正直思います。その制作の過程に審議の公開なり一般参加の投票なりを加えてクリアにすれば、十分ではないのでしょうか?

両氏とも国を超えて評価されるトップクリエーターなのです。改めて依頼するのは、気持ち悪いことでしょうか?その人たちを信じてよくはないのでしょうか?
このまま時間が経ち、この騒動が忘れ去られる事になんとも言えぬ寂しさと共に危機さえも感じています。

 

鬼に訊け -宮大工 西岡常一の遺言- とダークシャドウ

立て続けに魔物映画2本。1本はジョニーディップ扮するドラキュラ映画。1本は実在の人物、宮大工・故西岡常一氏のドキュメンタリー映画。これを並べて書くのもどうかと思いつつもですが、お許しのほど。

観た順序とは逆に、鬼と呼ばれた西岡棟梁の映画から。
このドキュメントは平成2年から3年半にわたって撮影されたインタビューを中心に、西岡棟梁の人間像に迫ったものです。
建築に携わっていながら、知った大工さんの名を挙げろと急に言われれば、この西岡棟梁とお弟子さんの小川三夫さんのお名前ぐらいしか、恥ずかしくも思い出せないかもしれません。大学時代に少しばかり興味を持って著書を読ませていただいているが、それもほとんど頭に残っていません。たまたまネットでこの映画の上映を知り、思い立つものを感じ観に行った訳です。
仕事の多くで木造住宅をやらせて頂き、やればやるほどに面白く思える反面、奥の深さや難しさを感じるようになってきました。しかしこの映画を観、宮大工の仕事とは次元の違うまるで机上の空論で建物を造っているのだと、分かってはいてもがっくり肩を落としそうな気分です。その次元を差し引いて想像しても、経験を積み重ねて時分の仕事に確信を得るのは、遥か彼方な行程に感じざるを得ません。
もっと仕事に悩み「訊ける」方との関わりを持つ事が大事な気がしています。

西岡棟梁が健在な時分、僕は小学生時代に斑鳩に少し住んでいました。法隆寺のスケッチもしたし、遊びに行っています。もしかしたら棟梁とすれ違っていたかもしれない。いま考えるとア〜もったいない。(ドウシヨウもありませんが)

西岡棟梁が鬼なら、ジョニーディップはドラキュラで。ティムバートン監督のダークシャドウはとても楽しめました。よくは知りませんでしたが、最後のエンドロールでテレビドラマのオマージュ版と分かり、映画の作りにいろいろ納得。この映画は自分と同じ40代以上の方の方が楽しめるのではないだろうか。
ところで物語の中で、主人公のバーナバス・コリンズ(ジョニデ)がまだ幼いころから、築造を始めたお屋敷は完成までに15年の歳月を要したと話していた。装飾の多いああした洋館は一体どのくらいの工程で建つものかと、どことなく思っていたので、15年という数字は物語の本筋とは全く関係なくひとり納得していた。まあしかし15年もやっていたら設計変更なんてきりが無いのかもしれない。計り知れなく続く工事に、きっと耐えられなくなりそうです。隠し部屋や秘密の通路の設計者はきっと、数奇な運命に終わるのでしょうね。ア〜怖い。

古い住まいを拝見して。

昨日は、しばらく先ですが解体を予定している既存のお宅へ、改築予定の敷地確認のつもりで行ったのですが、そのお宅の余りの迫力に目的を忘れほとんど見学状態となり、感動を受けてしまいました。

この古い住まいは亡くなられた建築好きのおじいさんが素人ながらに増改築を繰り返し、部屋内にも古い外壁が残ったままに内外渾然一体となった、かなり不思議な造りに変貌した2階建ての木造住宅です。決して使いやすいと言いづらい箇所が随所にあります。人の住んでいる息づかいがそのままに感じる古い住まいです。それをうまく言葉にする事が未だ出来ないでいます。
その日にヨメさんに説明を試み、今日もスタッフに説明を試みるのですが、どうもうまく出来ません。僕が興奮して伝えようとしていることは感じてもらえるのですが、よ〜分らんと首を傾げられる始末です。
そこで見た複雑に入り組んだプランや、思いも寄らぬ仕掛けを伝えても、それが本来興奮の原因では無く、亡くなったおじいさんがきっと愛したに違いないこの建物のそこかしこから醸し出す空気にすっかり飲み込まれたことが伝えたいのですが、どう言って良いのか全く分りません。

時代を経たからこそ出る迫力なのかもしれませんが、この空気が自分の設計する住まいに引き寄せることが出来ないのか。奇麗なだけでは決して得られないこの感動をどうすれば設計に生かせるのだろうと、考え始めています。ただしそれは小手先で出来るものでない事だけは間違いありません。

ホンモノとニセモノの境目は?

like a tile

建売住宅や分譲住宅の設計の手伝いしてみて、工業化とか製品化と言った言葉と、手作りとか職人技と言った言葉が以前に増して引っ掛かるようになりました。直接依頼を受けて委託物件の設計をしていると、建物のアイテムはひとつひとつ作らないとイケナイと言った義務のような気持ちが働いて、寝る間も惜しんでホンモノを目指そうと意気込む事もあります。もちろん自分なんかより数倍、数十倍の労力をかけて設計をしている建築家は世の中に大勢いらっしゃいます。なので、恐れ多くも自慢の話ではなく、むしろ勉強も労力もまだまだ足りないことを切々と感じている今日この頃です。

ただ、いままであまり真剣に見たことが無かった既製木製建具のカタログを開いてみて、結構よく出来たデザインの物もあることが分かったし、メーカーによれば納まりのバリエーションが思った以上に揃っていることも最近驚いたことのひとつでした。既製品を使えば設計の自由度は無くなるという錯覚で、避けていただけに他なりません。もちろんオリジナリティという視点だけで考えれば、目移りするように見えてもやはり限界はあります。しかし、世の中の建設事情や住宅事情を踏まえ、トレンドを少しでも押え世の中のニーズに応えようと開発された商品だから侮る訳にはいきません。その傾向と対応の早さはメーカーにますます必要になってくるでしょうから、使う使わないは別に、こうした製品の動向も注意して見ておく必要があるように感じだしました。

木製建具は建築の要素の中でもデザインアイテムのひとつとして捉えやすいだけに、「既製品」というものにどことなく拒否反応を持っていたとも言えます。建物の外装で言えば、サイディングもそのひとつ。以前は正直安っぽい、なんだかプラスティックで出来た様なにテラテラ感が気持ち悪い。ニセモンはニセモンでしかない。みたいな偏見でいたのですが、最近の商品をよくよく探してみると、コレいいじゃんと今まで口にしなかった言葉が出てしまいます。自分が目を背けていた間に、技術はどんどん上がって知らなかっただけ。みたいな事になりかねません。製品としての性能も上がっているでしょうし、偽物を本物にしてしまおうとするメーカーの意欲は、見習うべき事も実は多いはずです。

細かい事を言い出せば、既製品無くして設計は出来ないともいえますが、取りあえず今は意匠的な話として。

話を少し戻します。既製品建具や家具の面材も本当によく出来ています。ウソっぽいのももちろんありますが、ホンモノっぽいのもあります。ポリ合板やメラミン合板と言った化粧のベニヤ板も同じで、昔のプリント合板とは比べられないぐらいに良く出来た物もあります。シートのものもあります。実際、自分の設計した家具などの中で本物の木とニセ物の化粧合板を並べているのに、自分が見分けつかなくなる事さえあります。ホントに。本物の木の部分で塗装が上手に出来すぎると、ますます見分けがつかなかったり。そうだとすると、例えば紙のような薄い単板(本物の木を薄くスライスした板)を練り付けた化粧ベニヤ板を使う意味はどこにあるのだろうか。とさえ思えそうになります。
その昔、事務所の天井板は(古い建物だし。。)本物の板と思い込んでいたのですが、大掃除のある時に近づいてみるとプリントが剥がれている箇所を発見し、自分の眼が如何に節穴であるかを知りました。

考えてみれば、薄い単板を貼った化粧ベニヤ板とて工業製品です。考えれば考える程、工業化(あるいはニセ物)と手作り(あるいは本物)の境界は曖昧です。エコロジー、自然素材、ホルムアルデヒド、地球温暖化などなど、関連する語句はますます増えてきそうです。技術にも材料にも工業製品と手作り品は入り交じっているのが多くの建築の現状だと思います。自分はどこまでの工業化を許し、どこまでの手作りを守るのか。それもまた建築を考える上で大きな要素になるのでしょうし、安易な事は言えないと実感しています。ただ勉強と経験を積むしかその対処は無く、でなければ自分のスタンスを施主さんにきっちり説明することが出来ないように思います。

 

写真の建物は外装とエントランスのみリフォームしたビルで、以前にデザインをさせて頂いています。茶色い外壁部分は元々はベージュっぽい塗装を施されていましたが、砂岩”風”樹脂シートを貼り直しました。下のまばらな所はスレート”風”タイルです。離れて見ると結構重厚感が出ています。黒のルーバー部分は、エアコン室外機の目隠しになっています。デザインと指示だけ渡しておいて、出来上がりを見たのは実は最近だったのです。思った以上によく出来ていました。(笑)

造形とデザイン

cactus

先日、友人と話をしている中で「造形」と「デザイン」の違いを、彼が意識している程に自分自身は意識していない事を感じた。(雑誌等で見られる)最近の建物は、デザインは良いけど造形が無い。時代が過ぎてこの世に作者が死んでいなくなっても残るような建築の気がしない。と彼は言うのだ。
デザインは表層的なもので、装飾や仕上は時間が立てば古びるしやり替えもある。すると魅力が無くなるかもしれない、それは質そのものが廃れるというもの。造形はもっと根源的なもので、表面的なものが何であれ古びようが朽ちようが、それは変わらない質を保つというもの。時代の流れがあってこそ存在するのがデザインで、時間とは無縁に存在するものが造形と捉えて良いのだろうか。時代を超えて愛され残る数あるデザインは、造形そのものに良さがあるからこそとも確かに思える。
その場での彼の話の趣旨を乱暴に解釈すれば、最近のもてはやされ目移りする建物の多くは造形もないのにデザインでごまかしているに過ぎないと、嘆いているように感じた。
さて、建築における造形とデザインとは実は一体なんだろう。それを深く考えだすと、混乱迷走しそうな気がする。自然、環境、土地、時間、光、量塊、量感、空間、間、広がり、高さ、開口、窓、、、、哲学、歴史、、、家族、個人。それぞれの捉え方、考え方、組み合わせ方のなかで、建築は一体のものとなり建物として姿を現す。
どことなく間違った解釈をしそうなのが、量感や間など空間を造形と捉え、内部や外部の仕上をデザインと捉える事。大きな吹き抜けをリビングに配したとても気持ちよい空間です。とチラシの宣伝文句になる建売住宅があったとしても、それが造形の良さに繋がるかと言えばまずそうでは無い。その設計者は造形というより、単に売りのデザインとして吹き抜けのある間取りを考えていただけかもしれない。本来は造形として捉えるべきところも、表層的なデザインのアイテムでしか無くなってしまっている。いや、デザインと言ってもいけないかも知れない。
自分自身はどうかと問われると、デザインよりも造形のしっかりしたものがやりたいと思う。ただ、その造形とデザインの違いがまだまだ曖昧なのも本音。タマゴが先かニワトリが先か、に似ている話だが、まだまだヒヨッコにはじっくり考えないと解答はでないかもしれません。

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世界遺産のシンポジウム

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先週末は、友人の出版記念のシンポジウムに行って来ました。
「世界遺産と地域振興」世界思想社刊:出版記念シンポジウム
およそ2時間半、中国雲南省麗江が世界遺産都市となった過去現在をフィールドワークした報告と、その変遷を考察しながら未来に向けてどうあるべきかを考えよう。と言った感じです。前半は、麗江の風土やそこに住むナシ族が中国の中でどのような位置にあるのか、世界遺産観光都市となった事で住まいや街の様子、都市の有り様がどのような変化を成し遂げたのか。後半は服飾を中心に、同じく文化にどのような影響が及んだのか。実際に日本に留学中のナシ族の女性がパネラーとして参加され、充実した内容を聞かせてもらえました。
元々旅行好きで今は大学の先生もしているその友人に、「また中国だよ〜」と聞かされる度、「先生は大変だね」と返しながら「ええな〜」と思っていた訳ですが、今回のシンポジウムで「ええ仕事しとるな」とちょっと感心です。表面的なレポートでは無く、幾度も赴き、現地の人と深く交流が無ければなかなか分からない話を聞かせてもらえました。
本来あるべき世界遺産の意味、ユネスコの意図、観光の目玉と捉える行政の方針、利益を求める外部の侵入、そして実際にそこに住む人々の受取方。色々な思惑が決して直線には並ばず、錯綜し、本来あるべき姿を見失う。軌道修正をどうすべきかの提言まであった訳ではありませんが、そうした麗江の状況を伝え、日本においても世界遺産となった地域に一考を促したい。執筆者たちのそんな気持ちが良く伝わってきます。
しかしなぜかその意図に反して、パネラーのナシ族の女性は麗江の現状を決してマイナスに捉えてはおらず、その状況さえも取り込んでしまう逞しさを持っているのがナシ族だと、外から見るのとは全く違う現地の人々の気持ちを伝えてくれたのが、また面白くもあり、難しさのような気もします。

ここまでエラそうな事を書きながら、実は友人のその本を最後まで読めていません。はよ読も。
テレビで放送される「世界遺産」を今までぼ〜っと眺めていましたが、角度を変えて観させてくれる良いきっかけになりました。
ところで、友人の本はコチラです。「世界遺産と地域振興

製材所(大阪住之江)

lumber mill

以前の物件でお付き合いした建具屋さんの計らいで、今日午前中は大阪の製材所で原木を切り出す作業を見学させてもらいました。もともと材木屋の息子だったことから原木から買い付けをしている、ちょっと珍しい建具屋さんです。
この建具屋さんが買って一年ほど寝かせていた米松の原木は、直径が85〜90センチ。切り出し前、貝を掻き落すのにゴロンと転がった様子は引き揚げたクジラの様。質の良い木材には貝も良く付くそうです。今回は建具用では無いとのことですが、巾の広い板材を取るからちょっとは見応えもあるよ、とお誘いを頂きました。
製材の様子を見るのは始めてです。普段、現場や工場で見慣れている加工が済んでしまった材木とは、まるで違って生きている感じがします。大きなベルト状の製材ノコで切り出されると、巾一杯に木目が浮き出て更に迫力。木材問屋が売り残してしまったこの原木を、建具屋さんは安値で引き取ったらしいのですが、スタイルが良く木肌も上々で、ソツ無く製材が済み喜んでいました。
そして海には、どこかの業者さんの買い付けが済んで、いずれ切り出される丸太が一面に浮かんでいます。と書きたい所なのですが、なんだか少し寂しい様子。実はもっと壮観な様子が見られるのだろうと期待していました。今日訪れたこの製材所のある木材市場は、どちらか言えば一品ものを買い付けに来るような、どちらか言えば上物を置いている市場だそうですが、この数年需要は激減し、こうした切り出しが毎日行われている訳ではないのだそう。
木造の住宅が見直されていると言われる最近の状況と、現場は少し様子が違って見えてきました。同じ木材でも、構造に使われるような柱や梁は価格の安い地方に流れ、アメリカや中国で製材の済んだ材木を置いてあるだけの問屋さんも多くなり、この大阪の木材市場は危機的な状況にあるのだそうです。今日、製材をしていただいた切り出しをした工場に専門の職人さんは一人、後に続く若い人も育たず、木造住宅が更に需要ができたとしても対応が追いつかず、先に希望の見えないこの業界はどうする事も出来ないのだろうと建具屋さんは言っていました。
建築に携わりながら、そんな状況を把握出来ていない自分が少し恥ずかしい気がします。製材を見学した後、周辺の市場を廻りながら建具屋さんに教えてもらったそうした話は、この後どうなるのか。人事ではなく真剣に考えないといけないように思います。

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未来都市

昨日、2号線の車屋さんに自動車の定期点検に行って預けている間、
その近所をウロウロしながら街の風景なんかを写真に撮っていました。
最初に目に止まったのが写真の塔。
車屋さんの丁度目の前にある森永乳業近畿工場です。
これが工場の施設なのか、ただのモニュメントなのかさっぱり分かりませんが、
子供の頃に想像する宇宙ステーションのような不思議な形。
周囲の施設より一段と高く、よく目立っていました。
そこからまた小一時間ほどウロウロと散策。
付近は工場か普通の住宅地しかありませんが、
普段歩かない場所を探索してみるのは面白いものです。
日頃デザインを考える時、どちらか言えばスッキリ格好良くとかつい考えてしまいますが、
こうして、街を歩いて目に止まる物は逆。
ゴチャゴチャとは言わずとも、どことなくイカツイものや無骨なものについ惹かれます。

未来の都市を想像する時、大きく二手に分かれるような気がします。
スッキリ整理された未来か、ゴチャコチャ整理のない未来。
対極とは言い切れませんがマンガに例えると、鉄腕アトムVSアキラ。
幼少の頃に持った未来イメージはもちろん鉄腕アトム寄りでした。
丸やら三角やら四角やら、そんな形を組み合わせて未来の街を描いていたと思います。
しかし、小学生になってヤマトのガミラス星地底都市?に衝撃を受け、
中学生になってガンダムのスペースコロニーに憧れを持ち、
大学生にアキラやブレードランナーの工場的な未来図に感化されていきました。
良いか悪いかは別にして、現実的なイメージが未来を支配し始めたような感じです。
正直、明るい未来に見えませんね。
最近の映画やアニメに描かれる未来都市はますます複雑怪奇になるか、
異様なほど現実感を帯び、現実感を喪失したバーチャルな風景だったりします。
丸・三角・四角では現せない未来は、果たして良いのか。
今の子供たちにとって未来はどんな風に現されるのか、なんだか気になります。

アーキグラムの実験建築

展覧会の案内です。
「アーキグラムの実験建築 1961-1974」
水戸芸術館/2005年 1月22日(土)〜 3月27日(日)
アーキグラムとは、1960年代から1970年代初頭にかけて活躍したイギリスの建築家グループの名称であり彼らが出版していた雑誌のタイトルです。
(水戸芸術館現代美術ギャラリー/現代美術センターのHPより)
日本ではここでしかしないらしい。遠いな〜。うむむ。